防災・減災への指針 一人一話

2014年01月06日
水と食糧が不足した中での避難所運営
元山王小学校PTA会長
今野 喜弘さん

災害の記憶

(聞き手)
 多賀城には何年ほどお住まいですか。

(今野様)
 多賀城には平成9年から住んでいるので、16年目に入った事になります。

(聞き手)
 今野様から見て、この多賀城市という都市にはどのような印象を受けますか。

(今野様)
 私は大崎市古川の出身なので、とてもコンパクトな街だという印象を受けます。端から端まで車で15分ほどなので、向こうの小学校区と同程度の大きさだと感じています。

(聞き手)
 多賀城市は害の街だとよく言われていますが、今野様はこれまで、東日本大震災以外で災害の経験や体験はございますか。

(今野様)
 小学校1年生の時に宮城県沖地震はありましたが、災害と言うほどではありませんでした。それから、何年か前に酷い豪雨で害を受けた事はありますが、災害と呼べる災害はこれくらいです。

(聞き手)
 宮城県沖地震の時の事で、何か印象に残っている思い出や出来事などはございますか。

(今野様)
 小さい頃の事なので記憶が薄いのですが、ガスは止まったのではないでしょうか。ですが、実家は井戸があるので道が止まる事はありませんでしたし、電気が来なかったかもしれませんが苦労した記憶はなかったです。ただし、非常に怖かった事は覚えています。

(聞き手)
「地震などの災害があった時にはこうしなさい」というような、古くからの伝承や教訓などを聞いた事はございますか。

(今野様)
 ほとんどありませんし、教訓を教わった記憶もありません。ましてや、古川は沿岸部ではないので、津波と言う概念も全然ありません。強いて言うならば、大きな地震が来た時には竹藪に逃げろという事と、トイレが安全だという話を聞いた事があるくらいです。

(聞き手)
 害の時の記憶はどのようなものがございますか。

(今野様)
 至る所が没していて、仕事に行けなかったイメージが強いです。利府を回ろうにも新幹線のガード下は没していましたし、国道45号線も扇町の辺りが没していて、身動きが取れませんでした。どこを通って脱出しようか悩みました。

備蓄と反射式ストーブ

(聞き手)
 災害に備えて、備蓄や日頃からの備えとして、何か準備されていたのでしょうか。

(今野様)
 栗原市の方で岩手・宮城内陸地震がありました。その前に美里町南郷や石巻市河南などで震度6を記録した事があったので、備えをしたのはそれ以降です。宮城県沖地震が99%の確率で来ると言われていたので、妻1人と娘2人の家族4人の分として、1.5リットル以上のペットボトルを3本、冷蔵庫に備蓄していました。また、棚は全てねじを打って固定しておきました。簡単な対策でしたが、今回の震災でも、効果があったようで、棚は一つも倒れずに済みました。備えはそれくらいでした。
 過去の事例を見ると、宮城県沖地震でライフラインが止まっても翌日には復旧していたので、大丈夫だろうと思っていたのです。なので、飲みだけ用意していた形になります。また、阪神淡路大震災の時には寝室などで物が倒れてきて圧死したという話を聞いていたので、寝室には倒れたら危険な物を置かないようにし、棚を固定しておきました。
 備えとは少し違いますが、自宅で使っていた暖房器具は反射式ストーブでした。娘たちが一人になる事もあるのでファンヒーターの方が良いのかもしれませんが、災害時には電気が止まると思っていたので、そうなっても煮炊きが出来るようにと反射式ストーブをおいていました。ただ、毎週金曜日に灯油を購入していたので、震災の時はストーブがあっても灯油が足りない状況になりました。

(聞き手)
 災害が起こった時に、ご家族の皆様は1か所にいない事も多々あると思いますが、どこかご家族で集まる場所を決めてあるのでしょうか。

(今野様)
 山王小学校が避難場所なので、もし何かあったらそこに居ろと話をした事はありますが、今回は自宅におりました。あの日は多賀城市内の中学校の卒業式でした。長女が中学校1年生だったのですが、もう帰って来ているのがわかっていました。妻は中学校で図書館の補助員をしているものですから、卒業式が終わって帰宅していました。集合場所は決めていましたが、私が家に戻ったら自宅に2人が居たので、山王小学校に行く事はありませんでした。次女は小学校3年生でしたが、下校途中だったのでまだ帰っておらず、車で探しに出掛けました。

沿岸部からの避難と幹線道路の渋滞

(聞き手)
 震災当日、発災時にはどちらにいらっしゃいましたか。

(今野様)
 仙台新港南防波堤に、よくサーファーが車を停めている高台があるのですが、そこにいました。

(聞き手)
 尋常でないほどの揺れでしたが、どのようにお感じになられましたか。

(今野様)
 友人のワンボックスに乗っていたのですが、最初は小刻みな揺れでしたが強くなってきたので、あの時は車が倒れるのではないかと思い、必死にシートにしがみついていました。ついに宮城県沖地震が来たのだと感じました。一度収まりかけたところで第二波が来たので、不意を突かれたような感覚でした。また、JFEスチールの工場の煙突が、まるで映画のようにすっと倒れていきました。轟音とともに火の手が上がりましたし、遠くを見ると火力発電所の煙突は火を噴いていましたので、今日ここで死ぬのではないかと本気で思いました。

(聞き手)
 海のそばにいらっしゃって、揺れが収まった時に津波が来るという予感はございましたか。

(今野様)
 出身が出身だけに、その予感は全然ありませんでした。ですが、揺れが収まってすぐに自宅に戻りました。先ほどの通り、娘が帰ってきているとはわかっていましたし、宮城県沖地震が来たらこの家は潰れるかもしれないという話をしていたので、もしそうなっていたら助けに行かないといけないと思い、車で向かいました。帰宅途中、警邏中のパトカーがサイレンを鳴らしていて、「津波が来るから車を置いて逃げなさい」と言っていたらしいのです。ところが気が動転していたもので、大急ぎでキリンビール方面に車を走らせました。県道10号の亘理塩釜線までは順調に行けましたが、そこからは全く進まなくなりました。ラジオは点けっぱなしにしていて、ラジオの情報では10メートル以上の津波が来ると言っていました。良くも悪くも、津波の予報は当たったようです。ちょうど1年前にチリで地震があり、大津波警報が出たことがありました。ところが来たのは30センチほどの波でしたので、10メートル級の津波など来るわけがないと思っていました。
 裏道やわき道を通って家に戻ろうとしましたが、産業道路で詰まってしまったため、午後3時半頃に家に戻る事が出来ました。45分近く掛かった事になります。特に車から降りて避難するような方たちは見られませんでしたが、遅れていたら私も津波にのまれていたと思います。本当に間一髪でした。
 妻と長女の無事はすぐに確認出来ましたし、自宅も無事でしたが、次女が帰っていなかったので車で通学路を探しに行きました。どうやら、次女は私が車に乗っていたところを見ていたらしいのですが、私は気が付きませんでした。一度家に帰って、今度は自転車で探しにいったところ、地域の方と一緒に学校に向かっている次女を見つける事が出来ました。

避難所開設と物資の不足

(聞き手)
 避難所を開設して運営の手伝いをされたとの事ですが、避難所開設までに何か困った出来事などは起こりましたか。

(今野様)
避難されてくる方がいる中で、また子どもたちの引き渡しの最中だったので、先生方はとても手が回りそうにありませんでした。それをお手伝いしていると、市の職員が来ました。市の職員は学校の細かい勝手が分からない状況で、避難してきた方から、対応が難しい質問などをされて困っていました。見かねて橋渡しをしていたのですが、そのうちに市の職員と避難所の運営に当たる事になりました。

(聞き手)
 山王小学校は体育館が避難所になったそうですが、最大で何人くらいの方が避難されてきていましたか。

(今野様)
 外にいた方や車の中で暖を取っていた方たちを含めて、200から300人ほどではないでしょうか。最初に届いた毛布が30枚で、追加で届いたと思っても50枚少々だったので「全然足りない」と思った記憶があります。時間も時間でしたし、寒い日でしたので毛布を配りましたが、お年寄りの方や妊婦さんなどを優先していました。しかし、結局は奪い合いになり、収拾がつきませんでした。

(聞き手)
 今野さんの他には、住民の方でお手伝いされていた方はいらっしゃいましたか。

(今野様)
 たぶんいなかったと思います。当時の役員さんには毛布の配布を手伝ってもらいましたが、皆さんのご家庭の事もあるので、そちらを優先していました。何日か経った頃からは、例えば「私は体操のインストラクターが出来るので、皆さんに体操をさせようと思うのですが構いませんか」などといった申し出が出てきたことはありました。

(聞き手)
 震災当日は食べるものは確保されていたのでしょうか。

(今野様)
 いえ、全然ありませんでした。代わりに、午後6時頃に発電機が届いたので、投光器と電気ポットが使えるようになりました。投光器はステージの上から2か所を照らしていました。避難者の方で、2時間置きに痰を吸引しないと命に関わる寝たきりの方がいました。そこで、痰の吸引の時だけは、ハンドマイクで断ってから照明を落とし、吸引してもらっていました。
 食べ物は本当に何も無く、だけでした。小学校の配塔に教頭先生と登って、バケツでを汲みました。それを電気ポットで沸かして、お湯を配る事だけは出来たのです。ですが湯飲みが無かったので、まだ余震が来る中、グチャグチャのままだった校舎の中を懐中電灯で照らしながら探しに行きました。命の危険を覚えそうなほど怖い体験でした。何とか湯飲みを20個ほど持って来られましたが、洗う事が出来なかったので、エタノールで湿らせて簡易消毒しました。また、揺れのせいでポットや給塔の錆が落ちてしまい、お湯が濁ってしまったのです。「一応煮沸消毒はしてありますが、私たちの方で責任は持てませんが」と断ったうえで配りました。

(聞き手)
 食べる物は翌日以降に少しずつ入ってきたのですか。

(今野様)
 翌日に少し入ってきましたが、数が足りませんでした。2日目か3日目だったか定かではないのですが、多賀城の洋菓子店さんから、一人当たり3個のマカロンを配って頂いた事がありました。それなりに食糧は届いたのですが、数が揃わないので配れない時もありました。中にはイカやタラバガニ、賞味期限の切れた冷凍カレイのエンガワなど、どう使えばいいのか悩むものももらいました。アルファ米も届きましたが、を使うので、そこでは結局使えませんでした。翌日の夜に、おにぎり1個がきましたが、食糧は本当にありませんでした。

(聞き手)
食糧が皆さんに行き渡ったのは、何日目ぐらいに入ってからだったのでしょうか。

(今野様)
 4日目くらいだったと思います。全員に配れるだけのパンの個数が揃っていたのは、確か4日目の朝だったような気がします。

食糧と水の不足と献立の工夫

(聞き手)
食糧の整理も今野さんがされていたのですか。

(今野様)
私と市の職員でしていました。届いた食糧は奪い合いになってしまうので、1カ所にまとめておきました。それによって不満が出た時もありましたが、そうでもしないと奪い合いになってしまうのです。パンを配った時には、1人1個で配ったのですが、やはり中には何個も取って行かれる方がいて、その方に注意するとパンを投げつけられたこともありました。とても悲しい事でした。また、市の職員はほとんど食べなかったので、倒れられたら誰が面倒を見るのかと説得し、体育館の裏手で無理やり食べてもらった事もありました。ですがその後、私も市の職員から同じ事を言われてしまいました。
 また、4日目頃に、農家の方がお米を持ってきてくださいました。そこで、おにぎりを作ろうと考えました。発電機から、それなりの電力が確保でき、地域の方が貸してくださった電気釜と家庭科室の電気釜が使えそうでした。ところがが足りませんでした。そこでハンドマイクを使って、給してきた方たちに少しずつをわけてくださるよう呼び掛けました。それで人数を数えて、その場にいた200人分のおにぎり作りに、やっと取り掛かりました。女性の先生方が総出で米を炊いて、具は給食の残りの福神漬けを使いました。それを1人1個以上、ある程度余裕を持たせて250個作ろうと言ったのですが、後から後から人が増えるので、終わりが見えませんでした。車の中にいた方、小学校でおにぎりを作っていると噂を聞いた方などが増えて、最終的には800個ほどを作りました。5日目にはおにぎりやパンも届くようになりました。
 それから、山王小学校は初日の夜から火だけは絶やさないようにしていました。遊具が木製だったので、それを切って、薪として使わせて頂きました。

(聞き手)
十分に食糧が届くようになったのは5日目ぐらいからですか。

(今野様)
 その頃には、1人1個はだいたい渡せるくらい届きました。そうすると、今度はアルファ米が大量に余りました。せっかく頂いたのにどうしようかと思っていたところに、ベビースターラーメンが届きました。配るにもお年寄りの方には固いだろうと躊躇していたのですが、考えて、アルファ米と一緒に煮込んでおじやにしました。笹かま屋さんに勤めている方から笹かまの差し入れもあったので、それを刻んで入れ、農家の方が持ってきてくださったネギも入れました。コンソメ味のポテトチップもあったのでそれを砕いて入れて、おじやとして夜に振る舞いました。皆さん、初めて満足した食事が出来たようでした。同じものを今食べたら美味しくないのでしょうが、当時は、温かい食事はありませんでしたから、私なんて空腹もあって、3杯も食べてしまいました。あれは忘れられません。翌日に来た市長さんにその事をお話したら、目を丸くしておられました。
 大変だったのはミルクでした。アレルギーのお子さんがいて、特定のミルクが必要だと言われたのですが、粉ミルク自体が無いのでどうしようかと悩みました。
また、赤ちゃん向けのジュースが30本ほど届いたので、お母さん向けのスポーツドリンクと一緒に、それを陰でこっそり渡したこともありました。「いえ、いいです」と言われる事もありましたが「お母さんが倒れたらこの子はどうするのですか」と説得して、渡しました。

(聞き手)
 そうした非常事態になって、その場で何が出来るかを考えるリーダー的存在になったという事でしょうか。

(今野様)
 必然的にそうなってしまったので、なった以上はこの人たちをどうやって食べさせようかと、ひたすら考えていました。

(聞き手)
 先ほども少しお話がありましたが、残念なことを言われて、気落ちしながら行動していたというような事はございましたか。

(今野様)
 パンを投げられたような悪い面もありましたが、それ以上に皆さんに良くしてもらっていました。家からありったけの毛布を持ってきてくださった方、を調達してきてくださった方などがいました。それから、3日目の夜に市役所の職員から「あなたが帰らないと、立場上、私たちも家に帰れません」と言われたので、一度だけ家に戻りました。その時に、4リットルのペットボトル4本を届けてもらった事もあります。様々な方から食糧の差し入れも頂きましたし、とても親切にしてもらいました。

校庭に穴を掘っての仮設トイレ設置

(聞き手)
 皆さんに色々とお話を伺った中で、特に大変だった事としてトイレの問題がよく挙げられていますが、その問題はどうだったのでしょうか。

(今野様)
 トイレは人数が人数なうえ、体育館のトイレしか使えなかったので、すぐに詰まりました。ところが、幸運にもプールの改装工事に使っていた重機があったのです。しかも、現場監督の方が翌日に様子を見にきてくださったので、穴を掘ってもらうようにお願いしました。合宿で使うポップアップテントがあったので、穴の上に渡し板をしてテントをそこに設置して、簡易トイレとして使っていました。ただ、山王小学校のウィークポイントとして、プールが改装工事中だったために、そのが使えなかった事が挙げられます。他の学校ではそれを使っていたと聞いています。
 また、私の取引きしている会社は介護用品を扱っていたので、そこから簡易トイレを4、5台もらっていきました。市役所に言って、他の避難所にも回してあげましたが、トイレの問題は酷かったです。

(聞き手)
 避難生活はどのようなものでしたか。

(今野様)
 
避難生活2、3日目頃になるとする事のない方も出てきましたし、食べ物もないので愚痴が色々と出てきました。私は2日目の夜に市の職員と多賀城ジャスコの方面に偵察に行ってきたのですが、そちらは、ものすごい惨状でした。翌日の昼間に時間があったので、市の職員と一緒に、ビデオカメラで大代や仙台港などの沿岸部の様子を撮ってきました。校長室にあったテレビを持ってきて、避難している皆さんに沿岸部の様子を見せたところ、その夜から愚痴がぱったりと止みました。録画中に入ってしまっていた「こんな状況見たら、自分たちの置かれている状況に誰が文句を言えるのかな」という一言で、誰も文句を言わないようになりました。初日の夜は携帯ラジオ1個しか無かったので、誰も状況が掴めなかったのです。

平常時における学校と担当職員の連絡会議の必要性

(聞き手)
 当時の対応や行動で、うまく行った事とうまく行かなかった事を教えてください。

(今野様)
 市の職員の方の配置が決まっているという事は、避難所運営をして初めて知りました。今後は自分の担当の学校と、年に一度でもいいので連絡を取り合う会議のような場を設けると良いと思います。そうしなければ、学校のどこに何があって何が出来るかもわかりませんし、そうなると教頭先生が全て指揮しないといけなくなってしまいます。子どもたちが日常を取り戻すには学校を復旧、復興させるのが最良ですが、先生が指揮を執るとなると本来の仕事が出来なくなってしまいます。そうした面で、市の職員と避難所になる学校との連携がほしいです。他の学校でも、市の担当職員の方は苦労された事でしょう。

(聞き手)
 地域住民の方たちが協力体制を敷いたというような事はあったのでしょうか。

(今野様)
 安否確認をどう取るのか疑問に思っていましたが、それは、区長さんや民生委員の方が1軒1軒回って安否確認されていました。

様々な想定の下での訓練

(聞き手)
 多賀城市でも防災訓練が実施されていますが、防災訓練の在り方や実施方法などについて、何かご意見や助言などはございますか。

(今野様)
 学校で地震の避難訓練をしている時に、直後だと停電しているので校内アナウンスは使えませんし、避難路も確保出来ないのではと思った事がありました。実際に当時も使えませんでした。また、山王小学校は造成した土地なので、教頭先生が液状化の可能性を考え、校庭への避難をためらったと聞きました。そんな事も想定しておかなくてはならないのかと思いました。引き渡し訓練では、引き渡す時に担任と保護者が、面と向かってチェックするのが原則ですが、実際にはそんな余裕はありませんでした。知っている方や近所の方などにお願いして連れて帰ってもらうような状態だったのです。第二、第三の避難場所など、あらゆるパターンを想定したうえで、訓練は出来るだけリアルに実施するべきでしょう。
 それから、AEDの訓練は必要です。偶然ですが、震災当日の夜に2人の方が、酸素不足か何かで倒れてしまいました。呼吸をしていない状態に陥り、AEDを探している暇もなかったので、その場にいた看護師さんに蘇生して頂きました。教頭先生がAEDを持ってきた時にはもう息を吹き返していましたが、誰も使えなかったので、使い方を学んでおいた方が良い気がします。
後は、今でこそ防災備蓄倉庫が出来ていますが、やはり地域の食糧備蓄などが必要でしょう。

子どもたちに実体験させる場の創出

(聞き手)
 これから多賀城市が復旧・復興するに当たって、何が必要だとお考えでしょうか。

(今野様)
 逃げる高台がほしいです。沿岸部には高い場所がそんなにない上、車で渋滞するので、そういった時にとっさに逃げられるような場所が必要です。

(聞き手)
 震災から3年が経ち、震災の風化がよく聞かれるようになっています。風化してきていると実感する事はございますか。

(今野様)
 無いと言ったら嘘になります。震災を経験して、備蓄しているかと言われても備蓄しているわけでもなく、強いて言えば車のガソリンをなるべく満タンにしておくようにしているくらいです。震災前は燃費が悪くなると思って必要最低限しか入れてなかったのです。
 多賀城市自体も、街並みがきれいになっているので、風化している感じは否めません。ここは沿岸部といっても復旧、復興が早いのですが、たまに三陸に行くとまだまだ復旧、復興が進んでいません。多賀城市では、復旧の速度と忘れる速度、両方が早いような気がします。目にする事が出来るものがないと、そうなってしまうのかもしれません。

(聞き手)
 今は防災教育も色々な方法が取られていますが、防災教育に関して何かご意見はございますか。

(今野様)
 当時の事がフラッシュバックしてしまったり、PTSD寸前になっていたりする子もいると聞いているので、賛否両論あると思います。ですが、私は視覚に訴えるのが良い手段だと思います。つまり、震災当時の映像を見る事です。子どもたちには、震災の記憶は残っているし、色々な事を見聞きしたので刷り込みにはなっているはずですが、それを忘れさせないためには映像を見るのが一番でしょう。後はもう、とにかく逃げなさいという事を徹底的に教え込むしかありません。

(聞き手)
 ご家庭の中で、お子さんに対して防災の話や教育をする場面は多くなりましたか。

(今野様)
 それほど多くなってはいませんが、火の起こし方などは教えたいと思っています。今の子たちはもの凄い知識を持っているのですが、応用する力が弱く、考える知恵が足りないと思うので、それは教えなければいけないと思っています。教育するだけでなく、実体験させる場が必要なのです。子どもたちにとっては炊き出しなども必要な事でしょうし、学校でキャンプしてみるなど、慣れない環境の中に身を置いてみるのも一つのやり方でしょう。サマーキャンプをしている学校もあるようですが、そうした場があった方が、いざという時には多少なりとも経験を役に立たせられる気がします。

全国からの支援への感謝

(聞き手)
 ここまで以外で、話しておきたい事がございましたらお願いいたします。

(今野様)
 千年に一度と言われる震災でしたが、多賀城は津波の概念が薄かった事は、良くなかったことだと思います。私も内陸の出身なので、その認識が全然無かった事は反省点です。私は、千年に一回の震災を体験して生き抜いたので、その命は大事にしようと考えるようにしています。嫌な部分も色々と見ましたが、それ以上に嬉しかった面や人と人との繋がりを良く感じる事が出来ました。
 それから、全国に山王小学校という名前の学校が13校あるそうで、埼玉県狭山市と東京都大田区、石川県七尾市の山王小学校から支援を頂きました。どこでどう調べたのかわかりませんが、ガソリンも無い中、支援物資と義援金を持って学校まで来てくださいました。避難所が終わってからも、千葉の知り合いのPTA会長さんが連絡をくださって、不足している物は無いかと尋ねられました。知り合いの方が文化センターで避難生活をされていて、下着に困っていると聞いていたので、下着が無いと伝えました。すると2000枚もの新品の下着を送ってくださいました。それは文化センターに運んで配りましたが、千葉の会長さんは一日お会いした程度の関係だったにもかかわらず、あれだけの物を送ってくださいました。人の好意には本当に感動しました。仮にどこかで何かがあったら、今度は自分が逆にしてあげられるようにと、常に心掛けています。

(聞き手)
 人との繋がりに助けられたという事でしょうか。

(今野様)
 そうですね。良くも悪くも、私はここの土地の人間ではありませんが、PTA会長をしていて色々な方と知り合っていたので、それで助けられた部分が多々あります。避難所運営に関しても自宅の事に関してもそうでした。失った物や無くしてしまったものは、命を含めて色々あるでしょうが、そういった繋がりを発見出来た事は非常に大きい事だと思っています。